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この当時の人々は「はやぶさ」の名称がまさか後に北海道を結ぶ列車に転用されるとは誰一人想像していなかったでしょう...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りですね。海底の下を走り、北海道まで行くとは思いもよらなかったでしょうね。
九州新幹線ではなく 北海道新幹線のほうだとは 驚きでした。
@@ソケセテさま鹿児島に向かう新幹線で「さくら」の名前が使われるとは思いませんでしたが、桜島があることも決め手になったのでしょう。さらに東海道・山陽新幹線は基本的に平仮名3文字という暗黙の了解があったからかもしれませんね。東北新幹線のはやぶさの名前はJR東日本が命名前にJR九州に向けて使用のお伺いを立てて商標登録したとのことです。つばめの時もそうでしたが、命名前にJRの他会社の了解を取り付ける必要があるというのも時代の変化ですね。
私は約40年前、まだ西鹿児島を名乗っていた駅から上り東京行きはやぶさに乗った。熊本までは食堂車もなく、個室でゴロゴロ。熊本で食堂車が連結されたら早速夕食…その日は大晦日だったので、年越しそば代わりの焼肉弁当をオーダー。営業終了間際に受け取り、広島を過ぎ日付そして年が変わる福山を挟んで弁当を食べて新年を迎えて眠りに就いた。そして初日の出は浜名湖橋梁上で。車掌のおはよう放送は、皆様新年おめでとうございますと。食堂車で洋定食を食べながら隣で和定食を食べてる人を見たら、何と汁物がお雑煮❤慌ててお雑煮を追加オーダーした。そして西鹿児島から22時間余り…上りはやぶさは東京到着。長いようで短い旅路だった。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。年越し乗車で車内から初日の出、大変貴重な素晴らしい経験をしておられますね。コメントを読むだけでもその楽しさが伝わってきました。企画列車で復活したら是非乗りたいですね。
この当時はまだ富士号も西鹿児島まで行っていたでしょうね。
はやぶさは2度乗りました(いずれも上りで出水〜東京間)最初は幼稚園の頃で、客車は20系で3段式A寝台でした、上下の空間が狭く寝心地が悪かったのを覚えてます、2度目は小6の時で祖父の葬式の帰りでした、客車は24系25形で2段式B寝台だったので、ゆったりした空間でしたね😊
大牟田出身なので、寝台特急と言えば最後まで残ったはやぶさの記憶が強いです。大学生の時廃止の前年に京都→大牟田で乗ったのが最初で最後でしたが、乗客少なかったですね。隣り合わせになったおじさんが屋久島に行くと話していたのが記憶に残ってます。寝台券保存してます。。
40数年前、広島に朝のいい時間に着いたので、何度か利用させていただきました。当時は貧乏学生でしたが、なんか満足感がありました。40年前の懐かしを思い出されて、有賀央ございます。
この翌年10月、一旦は長距離特急列車の座を「富士」に15年間明け渡すことになります。
そして1980年10月1日のダイヤ改正で「富士」は、西鹿児島行から宮崎行に短縮され、再び長距離特急列車の座を「はやぶさ」に譲りました。
はやぶさ号の旅、ありがとうございます。深夜1時から2時の京都、大阪、神戸で客扱いをしていたのが驚きです。新幹線が出来る前なので座席車を中心にそのような利用があったものと思います。九州内では座席車で後のヒルネ客への対応も出来ていたものと思います。列車ボーイも乗務し、夜の寝台セット、朝は寝台を畳む作業をされていたそうです。それだけでも重労働だったことが偲ばれますね。さらには長い道中を快適に過ごせるようにと配慮していたのでしょう。様々な方の働きで一つの列車の運行につながると言うのは当たり前のようでも実際は様々な苦労があるものですね。1991年に母の田舎の九州に行くのに乗りましたが、食堂車でのハンバーグステーキは美味しかったです。根府川の夜景を見ながら頂きました。さらには雨の朝の北九州でモーニングセットを頂いたことも。本当に良き思い出です。
寝台特急が深夜に止まらなくなったのはヨンナナサンダイヤ改正からで、その前の寝台特急あけぼのが深夜時間帯に通過(運転停車)扱いにしても問題がなかったので行われた措置ですが、寝台特急日本海だけは例外的に深夜の新津駅に客扱い停車していた。
「はやぶさ」と聞けば今の北海道新幹線のよりもブルトレの方を直ぐに思い出します。高校生の時に友人と二人で大阪から博多まで実際に乗車しました。(帰りは博多から大阪行きの「まつかぜ」)。そして、朝食は、「はやぶさ」の食堂車で。夏休みだったので切符を1か月前のJTBの窓口へ始発の列車で行って並んで買いました。「はやぶさ」と「まつかぜ」の切符を買えた感動をいまでもはっきり覚えています。憧れの列車に初めて乗車できた良き思い出でした。UP、ありがとうございました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。私も「はやぶさ」と聞けばブルトレですね。往路は「はやぶさ」、復路は「まつかぜ」、在来線優等列車で移動できることはもちろん、瀬戸内海と日本海の両方を楽しめますね。今から考えると大変贅沢な鉄道旅ですね。
@@tomoyankun さんありがとうございます。友人も乗り鉄だったであり、当時は高校生だったので長時間の乗車もできたのですね。「はやぶさ」の寝台で横になり、時々聞こえたEF65の汽笛がとても美しく聞こえました。
小郡駅、懐かしい響きだ😚
ブルートレインはいろいろの思い出があります!食堂車が営業してた当時は駅にブルートレインが入ると料理の良い匂いがしてたもんです!浜松であさかぜ号で広島まで乗った時は食堂車はやっていてカレーを食べた記憶があったのと車掌さんが休憩で食堂車に集まってたタイミングもあって未成年だったせいか何か目線がこっちに向いてた感じがしました。はやぶさ号も西鹿児島まで乗った事があります!浜松で乗ったら近くを使ってたオッサンに酒盛りに付き合わされ終いには車掌さんから夜遅いからって静かにしてくれって怒られたりして!ブルートレインが走ってた時代はのんびりした時代だったな~
この時代の機関士(運転士)は、所属区に拠っては、200km近い区間の乗務を担当していた訳だから『凄いの一言に尽きます』、信号機や標識の建植位置、停車駅或いは通過駅の構内配線、乗務担当区間の線形を頭に叩き込んで運転業務に就いていた(プロだから当然と言えばそれまでですが) 今現在、新幹線運転士を除いて、片道200km近い区間の運転業務を行うのはJR貨物の運転士のみになりましたが。
福山駅での接続がバグっているようですが、それはさておき…。やはり、特急としての格の高さが感じられますね。東京を4時間先発している普通列車を名古屋までで追い越す速さ、車内設備など、当時の庶民には高嶺の花だったのではないでしょうか。あと、15:00でなにげに登場する大阪21:32発の普通八代行きもかなり凄まじい列車ですね。運行時間23時間って…。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。福山駅での接続について、概要欄に訂正文を掲載させていただきました。ご指摘ありがとうございました。所要時間こそ新幹線には負けますが、停車駅の少なさと設備の豪華さでは決して負けていませんでしたね。普通八代行きもかなり凄まじい列車ですよね。深夜帯と折尾~久留米間を除くとほぼ各駅停車でした。終点まで大変長く感じる列車だったでしょうね。
お疲れ様です。今回も良かったです。来週も楽しみにしています。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。嬉しいお言葉ありがとうございます。
浜松 三ノ宮 徳山 小倉 鳥栖 停車しないのは意外です。 しかし食堂車のビーフステーキ定食めちゃ食べてみたかった。今の牛丼大盛りくらいの値段ですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。現在の感覚からすると、これらの駅を通過していることに驚いてしまいますね。食堂車や駅弁、現在でもこの価格で提供されていたとしたら大変嬉しいですね。
当時の時刻表見ていたもの&利用したものですが、浜松は静岡に止まる列車は止まらない、三ノ宮は神戸に止まる列車は止まらない、小倉は門司に止まる列車は止まらない、ぐらいの勢いがありました。現にあさかぜなどは浜松停車の静岡通過でした。ビーフステーキ定食ですが、現在の価格だと3000円ぐらいです。サラダが付きます。当時は牛肉は高い肉でした。カレーライスが100円なのは、レンジでチンだからです。
門司は機関車交換が必要な客車特急が停車してそれ以外は小倉に停車していた。三ノ宮はさくらのみ停車していた。
名古屋発23時57分発の姫路行きの普通列車あったのですね。今あったらナゴヤドーム(バンテリンドーム)でのナイターが長引いてもほぼ最後まで観戦できる関西のプロ野球ファンには最適な列車になりますね。当時なら中日球場(ナゴヤ球場)ですね。
この姫路行きの上りがムーンライトながらのご先祖様です。この列車は後に豊橋始発の電車になり、ヨンサントウダイヤ改正で大垣始発に改められています。
懐かしく感じながら拝見しました、ありがとうございます。僕が高校生だった頃に比べて西鹿児島駅到着が遅い事に気づいたのですが、1964年当時は東京駅出発も遅かったのですね。学校からの帰宅時に西鹿児島駅にラストスパートを駆けるはやぶさ号を遭遇した時、運転士が警笛で合図してくれた事を思い出しました。あと、大学生の時、帰省で東京駅のはやぶさ号が出発するホームに着いた時、鹿児島弁が聞こえてきたのも懐かしく思います。今思うと、西鹿児島行のはやぶさが思い存分に汽車旅ができる最後の列車の一つだったと思います。
ご視聴とコメントありがとうございます。東京駅の出発時間が当時は遅かったようですね。線路容量やその他の事情があったのかもしれません。不便な面も多かったですが、『汽車旅』ができた良い時代ですね。
いつも、訂正やリクエストに素早いご対応ありがとうございます。自分でも複数の時刻表を所持していますので、実際に開いて確認しています。今後も(時刻表的に)おもしろい内容をお待ちしています。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。確認していただけて大変心強いです。正確な情報をお届けできるように、作成中のチェックも反復して行っていこうと思います。
お疲れ様です。東海道新幹線開業は夜行にとっての最初のターニングポイントでした。東名阪の優等列車はこれを機に特急全廃、急行・準急とも縮小の一途で今となっては高速バスがその代替になっている感があります。そして振り返ると西鹿児島にはやぶさ以外の特別急行列車もないんですよね
ご視聴とコメントありがとうございます。1964年9月は、東海道本線や山陽本線にとって、一番盛り上がっていた時期ではないのかなと個人的には感じます。新幹線の開業や、高速バスの進出により、徐々に縮小していきましたね。しかし当時はこれだけの夜行列車を設定していても、指定席の確保は大変だったのでしょうね。
山陽本線に関しては、輸送需要がより旺盛になったのは1975年3月改正直前ではないかとは思います国鉄が値上げを毎年繰り返すようになった1976年までは輸送需要は年々伸びていましたから……「あさかぜ」なんかは東京〜博多ですが、山陽新幹線全通直前は3往復体制になっていたかと。
この時代は寝台車だけでなく座席車もあるって良かったですね。現代では夜に急な事があっても鉄道移動が出来ないので車に頼るしかないんですよね。そういう事も含めて当時は選択肢があったのが羨ましいです。
新幹線開業後2等座席車(現普通車)は寝台車へ改造されていきました。最後まで残ったゆうづるもヨンゴウトウダイヤ改正でオール寝台車になった。唯一あさかぜ下り1号の1等車(現グリーン車)のみゴウマルサンダイヤ改正まで残りその後廃車されている。ちなみにヨンサントウダイヤ改正後は前記のゆうづるのみです。
時刻表の旅シリーズを見て行くうちに、昔は未開業の駅が段々と分かってきて、いつ開業したのか調べるようになりました。(三河安城、膳所、瀬田、中野東とかですね)東京駅の夜行列車連続発車のダイヤから見ても夜行列車は昭和の移動手段の代表であり、自分もそうだが、それを味わうことがもうできないのは旅好きな人にとっては羨ましさと悔しさがあります。15:34の普通久留米行きが普通種別のままで無停車運転をするという今では滅多に見れない運転をしていたのが驚きです。
当時は未開業の駅もたくさんあったことがわかりますね。特に愛知、広島、福岡に多いと思います。別途あげさせていただきましたが、名前が変わった駅もたくさんありますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。未開業であったり、名称が変わったりと、駅もこれだけ変化するのかと私も勉強になりました。普通久留米行きですが、時刻表上は特に表記はありませんでしたが、調べてみると「快速」として運転していたようですね。夜行列車が次々と発車していく様子を、実際にホームに立って見てみたかったです。
良質。これに尽きる。
18:21 長州でなく長洲(ながす)です。
ご視聴とコメントありがとうございます。概要欄に訂正文を掲載させていただきました。ご指摘ありがとうございました。
浜松や豊橋を通過してまうスパルタンさ、最高にカッコええですわ🥰地元三宮も通過😳カッコええ🥰
静岡と浜松は選択停車で豊橋はさくらのみの停車です。
個人的に幼少期(時代は90年代初め)、福岡に住んでいた所が鹿児島本線沿いで、まだ一部列車は食堂車連結晩年期の頃で時刻表一覧(0:27)にあった九州寝台特急の全てを見れたのはいい経験だったと思う上、ちょっと話が変わるものの、荷物列車が減少・廃止により、ダイヤに余裕が出来た事で普通・快速が増発した事がありましたが、改めて九州寝台特急の発車時刻を見ると帰宅時間帯に被る上、今ではかなり大変な時間に出発していた事と廃止になった分、普通・快速の増発に貢献している事を再認識ましたね…😢。
横浜の次が静岡までノンストップは驚き😮
寝台特急富士も2回すれ違っていましたが、はやぶさも2回すれ違っていたんですね。大発見でした。
そのために寝台特急あさかぜ1号が20系から24系25型に変更になると食堂車の捻出のために付属編成に移っているがこれは基本編成だとは3編成必要が付属編成だと2編成で済むための措置です。24系の食堂車はヨンハチトウダイヤ改正で新製されたのが最後で足らない分は14系オシ14型から改造されて100番台になっています。そのために銀帯の中に食堂車だけは白帯です。
熊本発着の末期と比べて停車駅が驚くほど少ないですね。こういう時間をかけられる旅が出来なくなって寂しい限りです。
高速道路網もなく飛行機も高嶺の花だった時代長距離移動と言えば鉄道一択だったんでしょうね
僕らの子供の頃と言えば、鉄道、そして特急列車。その中でも、ブルートレインは、際立って見えました。はやぶさは、特に人気も有り、富士と切磋琢磨して、東京〜西鹿児島間を、走って下さいました。お疲れ様でした。もう一度ブルートレインのお姿を拝見したいものですね~!不定期でいいから、お願いします‥
はやぶさという列車名といえば今は新幹線ですが、1964年当時はブルートレインでしたね😊東京~西鹿児島という長距離区間のためか上り列車と2回もすれ違うのは他の列車ではあり得ないでしょうね😅1964年当時は様々な夜行列車が存在していましたが、はやぶさのようなブルートレインはその中でも花形と呼べる列車でしょうね😂
いつもご視聴とコメントありがとうございます。「はやぶさ」と聞けばブルートレインですが、今でも「はやぶさ」という名称の列車が活躍していることは嬉しいですね。「はやぶさ」は小さい頃からいつか乗りたいなと思っている内に、乗る機会を逃してしまいました。名前の響きも良いですし、魅力ある列車ですね。
上皇様も皇太子の時、はやぶさに御乗車されました。それを引いたC61-31はぴかぴか✨に磨かれ国旗掲げての晴れ舞台、誇らしげだったでしょう。無論乗務員さんたちも、いや緊張の連続か(笑)
寝台特急富士もそうですし、のちの寝台特急トワイライトエクスプレスも毎日運転していたときにはそうです。
あぁ・・・ブルトレ1度も乗らずに終わってしまいました😭現在ブルトレは1本も無く、寝台特急は「サンライズ出雲・瀬戸」しか無いですからね。
自分が子どもの頃はSLホテルとかがまだあって、廃車になったオロネ10とかに泊まる事ができましたな。(*´・∀・)
当時の20系ブルトレには「座席車」も連結されていたのは、寝台券売り切れ客救済よりも東京〜名古屋・広島から先のヒルネ客を拾っていたから?
そうですね、20系には「ナロ20」(1等座席車)「ナハフ20」(編成最後部の2等座席車)「ナハ20」(中間部の2等座席車)が連結されていますね。
@@原田寛-e3uさま新幹線のない時代、国鉄は東海道線の線路容量ギリギリまで列車を運行していました。座席でも良いからと早く目的地に行きたいというニーズがあったものと思います。東海道新幹線の開業直後に座席車は寝台車に改造され、文字どおりの寝台特急になりました。
@@TSUYOS185 さん後に、「あかつき」の長崎編成に3列独立シートの「レガートカー」が連結されていた事がありますね。
@@原田寛-e3u さまあかつきやなは号のレガートシートは夜行の高速バスに対抗するためのものでしたね。その頃には山陽新幹線はもちろんのこと鉄道だ飛行機、カーフェリー、バスという多数の交通機関が出現したことから
@@原田寛-e3u さまレガートシートは当時夜行のあかつきやなはにありましたね。その頃になると山陽新幹線だけでなく航空機、カーフェリー、さらには高速バスと言った交通機関が発達したことから、座席車を連結するようにしたものですね。指定座席で普通車で3列と言うのは魅力でしたが、乗車する機会がなかったのが残念です。
名古屋までの停車駅の少なさと、深夜にも関わらず、関西圏でも律儀に営業停車するのが、今とは違う感覚。
大阪行きの夜行列車がたくさんあったことに驚きです。それ程夜行列車のニーズが強かったのですね。時折、沿線の名物が紹介されますが、これが旅情を誘います。庶民に手の届く金額で夜行列車が増えて欲しいです。今のクルーズトレインは敷居が高い!(^^)!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。クルーズトレインには乗車したいですが、敷居が高いですね。ですがいつか乗車してみたいです。今後はより旅情を誘えるような内容を追加していきたいなと思います。
東京発の夜行特急・急行列車の時刻表を見ると、20時台から22時まで10分に1本の頻度で発車していたことに驚き。そして23時発の準急「東海」大垣行は、後の大垣夜行→ムーンライトながらの原型ですね。この当時の東京発東海道線は横須賀線と線路を共有していました(東京~大船)ので、夜行特急・急行の合間に両線の普通電車運行という過密ぶりじゃないですか。最もこの時代はいわゆる鎌倉・横須賀方面や湘南地区は別荘地帯という認識で今みたいなベッドタウンというわけではなかった(つまり通勤路線という認識がなかった)という時代背景を考えれば、当時の国鉄が夜の時間帯に通勤用普通電車より優等列車の運行を重視していたことが伺えますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。夜行列車の時刻を並べてみると、その多さに驚きました。仰る通りで、優等列車の合間に普通電車を走らせていました。一日中ひっきりなしに列車が出発していましたから、東海道線のホームは通勤客はもちろん、荷物を抱えて旅に出る人もいて、今以上に活気があったでしょうね。通勤需要と長距離移動の需要の双方に配慮したダイヤ作成をする必要がありますから、当時の担当者の苦労を考えるとただただ頭が下がります。
違うぞ 大垣夜行の原型は東海の後に走ってた大阪行き普通が大垣止まりに短縮されたやつ
@@マイテ-x8oそのとおりですね。この4年後に大阪行きの普通列車の電車化で大垣行きに短縮されています。そして驚くことには東京から関西への普通列車にはもう1本、名古屋から大阪を夜行運転する列車もありました。名古屋駅のところに出てくる143列車です。ライバルの近鉄ですらなし得ないニッチ市場もあったものと思います。
この欄には電車急行の夜行には不定期列車(現季節列車)が多分に含まれていて、例えば第2いこまとか、はりまなどです。
未だに“はやぶさ”というと、こちらの寝台特急の方を先に思い浮かべるオジサンです。残念ながら乗る機会はなかったのですが、伝統の“さくら”や“富士 ”、運行区間を表す“出雲”“瀬戸”と列車名が並ぶ中で、颯爽としたイメージの“はやぶさ”の列車名には子供心に憧れを抱いていました。
八代ではやぶさのすれ違いが案内されてました。富士は深夜立花、甲子園口辺りですれ違ってたみたいです🤗
特別急行ですね!停車駅の少なさに改めて感動します。
【はやぶさとは?】昭和生まれの人のイメージ=ブルートレイン平成生まれの人のイメージ=東北新幹線
特急「はやぶさ」 東京 → 横浜 → 静岡 → 名古屋 → 京都 → 大阪 → 神戸 → 岡山 → 福山 → 広島 → 岩国 → 小郡(新山口) → 下関 → 門司 → 博多 → 久留米 → 大牟田 → 熊本 → 八代 → 水俣 → 出水 → 川内 → 西鹿児島 😮
深夜~未明の京都駅や大阪駅で客扱いを行っていたところが驚きですね。
これが大きな利点😊
深夜に客扱い停車しなくなったのはヨンナナサンダイヤ改正からで、それまでは停車していました。あけぼので深夜の客扱い停車をせずに運転停車だけにした所とくに問題がなかったので実施された。
食堂車は値段が高くてそんなにうまくなかったけど今となっては最高の思い出。ポット入りのカレーはあれ以来食ってない。
東海道本線、東北本線を走るブルートレインには乗ることができなくて、もっぱら上野~金沢間の「北陸」のユーザーでした。廃止直前にも乗ることができて、上野駅の改札を出るときに駅員さんにこの切符もらって帰っても良いですか?ってお願いしたら、「どうぞ。またのご乗車をお待ちしています、と言えなくて済みません」と沈んだ顔で言われたのを今も覚えています。「はやぶさ」や「さくら」、東海道を走るブルートレイン乗ってみたかったです。
🌃寝台特急「はやぶさ 西鹿児島行」🗼東京 → 横浜 → 🍊静岡 → 🐔名古屋🏯→ 🌲京都 → 🐙大阪 → 神戸🐔 → 🍑岡山🗻→ 🦺福山🗻→ 🦪広島🏝️→ 岩国 → 小郡 → 🐡下関 → 🍑門司 → 博多 → 久留米🍚→ 大牟田 → 🐻熊本 → 八代 → 🩳水俣 → 井水🩳→ 川内 → 🦌西鹿児島 🍀
寝台特急はやぶさ号、私が母親の九州の在所に行く際に使った列車で思い入れがあります。2000年頃に乗ったことありましたが、そのときは西鹿児島でなく、熊本始発で鳥栖で30分ほど停車しました。長崎からきたさくら号と連結して東京へ行く運転でした。寝台特急のラストランの当日に名古屋駅に向かい、ゆっくりと走りながら見送ったのは思い出になりました(*^▽^*)。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。夜行列車は帰省で利用する方も多いので、人それぞれ大切な思い出がたくさんつまっているように思います。
東京~西鹿児島を22時間30分で結ぶ人気寝台特急「はやぶさ」熊本短縮までほぼ変わらなかった現在は東京~鹿児島中央を約6時間30分と短縮して、鉄道のスピードアップは進化を遂げる
本当にそうですね。昭和50年代の寝台特急はやぶさの東京出発時刻(16:45)に、今東京駅に行って新幹線に乗れば、その日のうちに鹿児島中央駅についてしまうことがわかり、びっくりしてしまいました。
博多駅に5分停車します。後ろ半分程の付属編成を切り離しです。そして当日折り返しに備えます。西鹿児島行きが強烈な響きと印象が残りますが、利用実態は博多と北九州のお客さんが多数なのを時刻表から察し出来ますね。あさかぜの時間帯がいかに人気だったかも窺えます。ゆえにはやぶさは博多車掌区が伝統も頷けますし東京行きの中で唯一九州弁の車掌さん(笑)今、北海道行きですがNHKの鳥特集を見て室蘭上空を飛ぶはやぶさは精悍な顔でした(笑)
さくら、みずほは女性的な名称だが、はやぶさは男性的で硬派なイメージを誇った富士は富士山の雄大さを誇り、あさかぜは豪華とスピードを誇った東京発のブルートレインはこの頃既にスター軍団として特急界を牽引する事になる
20系B寝台は幅が52cmしかなく肥満の自分には狭かったのを覚えています(急行かいもん時代に乗車)24系になって70cmになって広くなった記憶があります準急ゆのかは急行457系時代によく乗車していました小倉~大分の運行でした鉄道が全盛期の頃の列車なのでさぞかし乗車率は良かったでしょうね
11:28 421M福山駅発車時間が間違えがありませんか
いつもご視聴とコメントありがとうございます。概要欄に訂正文を掲載させていただきました。ご指摘ありがとうございました。
神足駅とは現在の長岡天神駅ですかね?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。細かくて申し訳ありませんが、現在の長岡京駅です。駅名が変わっている事が、この駅以外にも結構多いことにも驚きました。
博多発新山口から山口線経由宇野行、東京発多気で新宮と鳥羽行を分割、広島発芸備線経由姫路行など今ではあり得ない列車ばかりで面白い極めつけは高山本線と北陸本線と東海道本線経由名古屋環状列車に驚愕
この循環列車は高山本線先回りはしろがねで、北陸本線先回りをこがねと言い、ヨンナナサンダイヤ改正まで運転されたが改正で高山本線はのりくらになり、北陸本線は特急しらさぎに格上げされたが、このしらさぎには寝台電車特急金星の間合い運用で583系が使用されていて耐寒耐雪を強化したグループが使用されていて第2グループと呼ばれ受持区の南福岡電車区ではさぞ大変だったのではないか?
私はもう少し後の時代の生まれですが、それでも夜行特急寝台、急行はまだ沢山走っており当時鉄道雑誌だけではなく、一般の雑誌でも特集が組まれている程でした。つくづく幸せな時代だったと思います。ただ、関西⇔九州方面のフェリーはコロナの影響が一時的にあったにはせよ、復権していて売上が伸びているんですよね。鉄道の場合夜間保線や費用分担及び貨物等の振り分け等色々難しい問題はありますが、もう少し夜行寝台特急及び急行の復活はあるのではないかと思っています。
うちの何もないような田舎の実家の近くまで寝台列車や夜行列車が走ってたと知って驚いたちなみに親戚のばあちゃんは幼少期、そんな何もない駅を通過した光景を見て自分が乗ったのが急行だと知って大声で泣いてしまったら、車掌さんも駅員さんもいい人でちゃんと最寄り駅まで戻してくれたらしい後で母親にこってり叱られたらしいけど料金とかどうしたまでは聞かなかったけど、こんなのに間違って乗ったらとんでもない事になりそうだな苦笑い
いつもご視聴とコメントありがとうございます。どこに連れて行かれるのかと大変な不安だったでしょうね。今とは違い、新幹線並みの停車間隔ですから、本当に大変なことになりそうです。
どこか懐かしく、どこか寂しい気になるね。今の定期便がサンライズだけだし、噂では車両の老朽化でなくなるとか聞いたことがあります。ロマンがまた1つ減るとなると、よりこの動画の価値が上がりますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。サンライズも後継車両の話が出ていませんね。そのまま廃止になってしまう噂もよく聞きます。動画の価値が上がることは嬉しい事ですが、ロマンあふれる列車が減ってしまうのは寂しいですね。
飛行機、新幹線にシフトして衰退した寝台特急列車。丸一日かけて東京〜西鹿児島を結んでいたが故に上り列車と2回すれ違う。当時はプラチナチケットだったのであろう。リクエストなのですが、大阪から西鹿児島を走っていた特急『なは』の昼行(80系DC、485系EC)、夜行(581系、24系25型)、末期(運転区間短縮、あかつき併結)の推移、24系25型、581系、筑豊線経由14系15型使用して乱発していた『明星』お願い致します。
広島で朝食タイム、博多でランチタイム、食堂車の従業員の皆さんは大変だったでしょうね。どんなシフトだったのでしょうか。気になります。終着に近くなるとこまめに停車するところは、いかにも寝台列車らしいですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。たしかに従業員の方々の勤務形態が気になりますね。終点に近づくにつれて徐々に車内は静かになっていったのでしょうね。
はやぶさの食堂車はたしか日食博多営業所だったと思います。さくらが長崎営業所、富士とみずほは門司営業所だったかな?あさかぜは東京営業所だったのでは?
長い旅路ですね、機関車の交換は何度あったのでしょう山陽路はまだC62かなぁ20系を引くC62カッコ良かっただろうな。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。この頃は既にEF58が牽引していたかもしれませんね。C62が20系客車を牽引する姿、一度見てみたかったです。
牽引機は広島と下関感はC62型で、この一ヶ月後に山陽本線全線電化が完成します。東京と広島はEF60型500番台です。すでにEF58型は牽引機からは撤退しています。
23:30の各駅停車大阪行きって寝台何ですか。初めて見ました。。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。残念ながら寝台ではありませんでした。ですが電車ではなく、客車での運転でした。今ではありえない列車ですよね。
ムーンライトながらの前身ですよ。普通大阪行が昭和44年10月に短縮されて大垣夜行になりました。
それは上りです。下りは廃止されています。上りは後に豊橋始発の電車になり、ヨンサントウダイヤ改正で大垣まで延長された。
あさかぜ:永久欠番さくら、はやぶさ、みずほ:新幹線として復活現役富士:リニアが走る時代まで温存中?瀬戸、出雲:電車として現役
60pの牽引時代ですね
国鉄時代の特急らしい停車駅設定だなぁ横浜を出たら熱海も沼津も富士も通過して静岡。浜松も飛ばして名古屋の次は京都...青い寝台特急はやっぱり鉄道ファンの憧れだという事を再認識させられたただ、二度と復活する事は無い。サンライズが引退したら、日本から寝台特急は消える世界を見渡しても、民営鉄道が夜行列車を動かす例はドイツ(夜行ICE/ユーロナイト)・ベルギー(レギオジェット)・日本(サンライズエクスプレス)だけ。他の国は国営鉄道(子会社含む)もしくは国家が出資する公営企業体民営鉄道が夜行列車というコストパフォーマンス最悪な列車を動かす事が如何に難しいかは世界が証明している最後の日には多くの人に見送られた幾多の寝台特急だって、今この時代に復活を願っているのは鉄道ファンだけだろう?一般人は見向きもしない。それが答えだ
いつもご視聴とコメントありがとうございます。堂々たる走行ぶりですよね。仰る通りで、収益が良く、効率も良い列車であるなら、他の交通機関との競争に負けることなく、現在でも残っていてもおかしくないわけですよね。現実を直視すると、鉄道そのものを維持することが難しいかがわかります。
岩国停車徳山通過に驚いた。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。24時間対応するためには、本当に多くの人たちの働きがあったからこそだったのでしょうね。夜行列車が全国的に姿を消していった理由の1つが実感できますね。素敵な思い出ですね。車窓を楽しみながら食べる夕食や朝食は味も格別だったでしょうね。
22時間半。今ですと新幹線乗り継いで7時間~7時間半くらいと考えると時間にして3分の1なんですね。
熊本に帰省するとき若い頃は時間かかるな。それから少しずつ年かさね同じはやぶさでもあれ!もう着いたのか!まだまだ乗っていたいのにと未練がましい心境に変わりました(笑)
東海道新幹線開通前の日本の鉄道は今と全然違いますね。同じ区間でも急行で行くか普通で行くか選択肢があった時代。今の新幹線しか選択肢にない鉄道とどちらが利用者にとってはいいのでしょうかね。
大阪〜は蒸気機関車が牽引したのでしょうか?
この当時は広島と小郡間のみ非電化です。
大阪以西の電化ははやぶさ誕生のときには姫路までで、その後徐々に電化は西進していき最後に残った広島・小郡(現・新山口駅)が新幹線新大阪開業と同時に完成した。ちなみに岡山電化が昭和36年で広島電化が昭和37年で小郡と下関間は昭和36年だったと思います。小郡までは421系交直流電車が九州から乗り入れていました。
この列車には乗ったことがありませんが、何か違和感を感じてしました。確か、自分が時刻表で知っている寝台特急はやぶさは東京1645発で西鹿児島着が翌日の14時台だったはず。ただこれは昭和50年代なので、その前に1900発から繰り上げられたのでしょうね。その分、京都大阪の停車時刻が真夜中でなくなり、乗りやすくなったのかもしれませんね。あと、それでも1時間ほど早くなったのは、やはり1964年頃はまだ鹿児島本線が久留米あたりまでしか電化されていなかったからかもしれませんね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。おそらく昭和49年に東京駅出発が16時45分に繰り上げられたのではないかと思います。時刻表の変遷を見てみてると、徐々にスピードアップしていることがわかりますね。全線電化されたことが大きそうです。
この時代は さくら16:35 みずほ18:20 あさかぜ18:30 はやぶさ19:00 富士19:05の順で出発でした。あさかぜの出発順も後のダイヤ改正に比べると早くなってますね。上り東京着もさくらが一番遅いというイメージがありますが、この当時は富士が最遅。
ヨンナナサンダイヤ改正までは東京18時発が16時45分発になり列車番号も3列車になった。
京都での乗り換えは、奈良線。福山駅5:42 501M 府中行き 府中6:24。門司での乗り換え、南延岡行き521 11:09、急行「べっぷ」別府行き 11:54。熊本 三角線 三角行き14:16 541D、できましたら加筆訂正お願いします。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。動画内での修正ができませんので、概要欄に加筆と訂正内容を掲載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
博多着、今の新幹線のぞみ1号と同じくらいだな。
ほぼ1日かけて運転される当日中の到着は名古屋まで今なんてこの時間でも鹿児島は当日中に到着17時半鹿児島は東京からは午前中に出れば余裕。昼行のこだまもだが県都の駅しか停車しない滋賀が完全スルーで県都以外は福山でやっと停車九州は昼で鹿児島は夕方同じルートを特急可のなんて深夜は運休せいぜいサンライズぐらいなので当時の再現は企画列車以外不可でこだまもケースでも東京朝で福岡博多が夜新幹線が偉大なる発明だと思う。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。新幹線のおかげで東京に帰る場合、大阪に21時まで滞在可能になったわけですから、新幹線の偉大さがよくわかりますね。
東京→西鹿児島へ行くには、「はやぶさ」の他に新幹線「ひかり」と「有明」でも行けれるんですよね。今度は昭和55年のダイヤで東京→西鹿児島で寝台特急「はやぶさ」及び新幹線「ひかり」と特急「有明」をリクエストします。
現在とは名前が異なる駅岩淵→富士川神足→長岡京西ノ宮→西宮玉島→新倉敷己斐→西広島周防富田→新南陽小郡→新山口西宇部→宇部長門一ノ宮→新下関筑前新宮→福工大前雑餉隈→南福岡白木原→大野城船小屋→筑後船小屋日奈久→日奈久温泉西鹿児島→鹿児島中央
西ノ宮の他に「ノ」が消えた駅は東相内、相内がありますね。
151系特急電車と20系特急客車は、昭和30年代の国鉄車両の最高傑作。1964年10月に東海道新幹線が開業し、新たな時代を迎えたが、国鉄は新幹線工事で蓄えを使い果たし、赤字体質に転じ、多額の累積赤字を抱え、労使関係も悪化。特に「生産性向上運動、所謂、マルセイ運動」で不当労働行為が多発。国鉄幹部が謝罪し、現場の中間管理職層がヤル気を無くし、職場が荒廃…、飲酒乗務とかが状態化しトンデモナイ事態に…とうとう国鉄分割民営化された。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。1964年に赤字に転落してから、そこからの赤字の膨らみ具合は驚くべきものでしたね。鉄道路線、特に地方路線の維持がいかに大変であるかを思い知らされることになりました。
1970年に北九州市で就職して配属先の千葉県に移動するときに門司駅から「はやぶさ」に乗りました🎵6名での移動でしたが自分はすすんで上段に❗️乗り降りは大変ですが意外と良いところもありました🎵自分はよく寝台列車に乗ってたので気にしませんでしたが同行者には狭さで不評でしたね❗️
もしかしたら某製鉄会社にお勤めだったんですか?後20系B寝台は、当時3段ベットで幅も狭く不評だったと聞いた事がありますね。
1970年代なら時刻表マニアだった。シュウマイ弁当やすいなww
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時の大卒初任給が約2万円ですから、実際はそこまで安くなかったのかもしれませんね。ですが今の貨幣価値で考えると大変安く感じますね。
@@tomoyankun 調べたら、今は900円今で言うと1200-300円くらいなのかな?
所要時間が高速バスはかた号より遅いのってやっぱ今じゃ使いづらいよね
そのために寝台特急博多あさかぜが廃止された事情がありました。最もJRになってからは一部の寝台特急を除いて利用率は芳しくはなかったのです。
14系がみずほに使用されたのはもともた14系がヨンナナサンダイヤ改正から特急に使用されたが製造量数は試作車10両を含めて91両で編成になおすと14両✕6で84両必要になりはやぶさや、富士では基本編成が3編成必要になり、明らかに足らない。そのためにまずはやぶさから14系が除かれていた。それと当時みずほは東京発着の列車では比較的に地味で他の寝台特急に比べて寝台券が取りやすかったので新型といった宣伝の意味もあったのではないか?ちなみに試作車の10両は前年に急行瀬戸2号・1号当時の瀬戸は急行で2往復あり4両ずつ連結されていた。この14系は旧型客車に蒸気暖房を引き通すために機関車からの蒸気が引き通されていたが14系自体は自車からの暖房装置で賄っていた。この装置は後の北海道用の500番台以外ない。
昭和は遠くになりにけり
この当時の人々は「はやぶさ」の名称がまさか後に北海道を結ぶ列車に転用されるとは誰一人想像していなかったでしょう...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りですね。海底の下を走り、北海道まで行くとは思いもよらなかったでしょうね。
九州新幹線ではなく 北海道新幹線の
ほうだとは 驚きでした。
@@ソケセテさま
鹿児島に向かう新幹線で「さくら」の名前が使われるとは思いませんでしたが、桜島があることも決め手になったのでしょう。
さらに東海道・山陽新幹線は基本的に平仮名3文字という暗黙の了解があったからかもしれませんね。
東北新幹線のはやぶさの名前はJR東日本が命名前にJR九州に向けて使用のお伺いを立てて商標登録したとのことです。
つばめの時もそうでしたが、命名前にJRの他会社の了解を取り付ける必要があるというのも時代の変化ですね。
私は約40年前、まだ西鹿児島を名乗っていた駅から上り東京行きはやぶさに乗った。熊本までは食堂車もなく、個室でゴロゴロ。熊本で食堂車が連結されたら早速夕食…その日は大晦日だったので、年越しそば代わりの焼肉弁当をオーダー。営業終了間際に受け取り、広島を過ぎ日付そして年が変わる福山を挟んで弁当を食べて新年を迎えて眠りに就いた。そして初日の出は浜名湖橋梁上で。車掌のおはよう放送は、皆様新年おめでとうございますと。食堂車で洋定食を食べながら隣で和定食を食べてる人を見たら、何と汁物がお雑煮❤慌ててお雑煮を追加オーダーした。そして西鹿児島から22時間余り…上りはやぶさは東京到着。長いようで短い旅路だった。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
年越し乗車で車内から初日の出、大変貴重な素晴らしい経験をしておられますね。コメントを読むだけでもその楽しさが伝わってきました。企画列車で復活したら是非乗りたいですね。
この当時はまだ富士号も西鹿児島まで行っていたでしょうね。
はやぶさは2度乗りました(いずれも上りで出水〜東京間)最初は幼稚園の頃で、客車は20系で3段式A寝台でした、上下の空間が狭く寝心地が悪かったのを覚えてます、2度目は小6の時で祖父の葬式の帰りでした、客車は24系25形で2段式B寝台だったので、ゆったりした空間でしたね😊
大牟田出身なので、寝台特急と言えば最後まで残ったはやぶさの記憶が強いです。
大学生の時廃止の前年に京都→大牟田で乗ったのが最初で最後でしたが、乗客少なかったですね。隣り合わせになったおじさんが屋久島に行くと話していたのが記憶に残ってます。寝台券保存してます。。
40数年前、広島に朝のいい時間に着いたので、何度か利用させていただきました。当時は貧乏学生でしたが、なんか満足感がありました。40年前の懐かしを思い出されて、有賀央ございます。
この翌年10月、一旦は長距離特急列車の座を「富士」に15年間明け渡すことになります。
そして1980年10月1日のダイヤ改正で「富士」は、西鹿児島行から宮崎行に短縮され、再び長距離特急列車の座を「はやぶさ」に譲りました。
はやぶさ号の旅、ありがとうございます。
深夜1時から2時の京都、大阪、神戸で客扱いをしていたのが驚きです。新幹線が出来る前なので座席車を中心にそのような利用があったものと思います。九州内では座席車で後のヒルネ客への対応も出来ていたものと思います。
列車ボーイも乗務し、夜の寝台セット、朝は寝台を畳む作業をされていたそうです。それだけでも重労働だったことが偲ばれますね。さらには長い道中を快適に過ごせるようにと配慮していたのでしょう。
様々な方の働きで一つの列車の運行につながると言うのは当たり前のようでも実際は様々な苦労があるものですね。
1991年に母の田舎の九州に行くのに乗りましたが、食堂車でのハンバーグステーキは美味しかったです。根府川の夜景を見ながら頂きました。さらには雨の朝の北九州でモーニングセットを頂いたことも。
本当に良き思い出です。
寝台特急が深夜に止まらなくなったのはヨンナナサンダイヤ改正からで、その前の寝台特急あけぼのが深夜時間帯に通過(運転停車)扱いにしても問題がなかったので行われた措置ですが、寝台特急日本海だけは例外的に深夜の新津駅に客扱い停車していた。
「はやぶさ」と聞けば今の北海道新幹線のよりもブルトレの方を直ぐに思い出します。高校生の時に友人と二人で大阪から博多まで実際に乗車しました。(帰りは博多から大阪行きの「まつかぜ」)。そして、朝食は、「はやぶさ」の食堂車で。夏休みだったので切符を1か月前のJTBの窓口へ始発の列車で行って並んで買いました。「はやぶさ」と「まつかぜ」の切符を買えた感動をいまでもはっきり覚えています。憧れの列車に初めて乗車できた良き思い出でした。UP、ありがとうございました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
私も「はやぶさ」と聞けばブルトレですね。往路は「はやぶさ」、復路は「まつかぜ」、在来線優等列車で移動できることはもちろん、瀬戸内海と日本海の両方を楽しめますね。今から考えると大変贅沢な鉄道旅ですね。
@@tomoyankun さん
ありがとうございます。友人も乗り鉄だったであり、当時は高校生だったので長時間の乗車もできたのですね。「はやぶさ」の寝台で横になり、時々聞こえたEF65の汽笛がとても美しく聞こえました。
小郡駅、懐かしい響きだ😚
ブルートレインはいろいろの思い出があります!
食堂車が営業してた当時は駅にブルートレインが入ると料理の良い匂いがしてたもんです!
浜松であさかぜ号で広島まで乗った時は食堂車はやっていてカレーを食べた記憶があったのと車掌さんが休憩で食堂車に集まってたタイミングもあって未成年だったせいか何か目線がこっちに向いてた感じがしました。
はやぶさ号も西鹿児島まで乗った事があります!
浜松で乗ったら近くを使ってたオッサンに酒盛りに付き合わされ終いには車掌さんから夜遅いからって静かにしてくれって怒られたりして!
ブルートレインが走ってた時代はのんびりした時代だったな~
この時代の機関士(運転士)は、所属区に拠っては、200km近い区間の乗務を担当していた訳だから『凄いの一言に尽きます』、信号機や標識の建植位置、停車駅或いは通過駅の構内配線、乗務担当区間の線形を頭に叩き込んで運転業務に就いていた(プロだから当然と言えばそれまでですが) 今現在、新幹線運転士を除いて、片道200km近い区間の運転業務を行うのはJR貨物の運転士のみになりましたが。
福山駅での接続がバグっているようですが、それはさておき…。
やはり、特急としての格の高さが感じられますね。東京を4時間先発している普通列車を名古屋までで追い越す速さ、車内設備など、当時の庶民には高嶺の花だったのではないでしょうか。
あと、15:00でなにげに登場する大阪21:32発の普通八代行きもかなり凄まじい列車ですね。運行時間23時間って…。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
福山駅での接続について、概要欄に訂正文を掲載させていただきました。ご指摘ありがとうございました。
所要時間こそ新幹線には負けますが、停車駅の少なさと設備の豪華さでは決して負けていませんでしたね。
普通八代行きもかなり凄まじい列車ですよね。深夜帯と折尾~久留米間を除くとほぼ各駅停車でした。終点まで大変長く感じる列車だったでしょうね。
お疲れ様です。今回も良かったです。
来週も楽しみにしています。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
嬉しいお言葉ありがとうございます。
浜松 三ノ宮 徳山 小倉 鳥栖 停車しないのは意外です。 しかし食堂車のビーフステーキ定食めちゃ食べてみたかった。今の牛丼大盛りくらいの値段ですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在の感覚からすると、これらの駅を通過していることに驚いてしまいますね。食堂車や駅弁、現在でもこの価格で提供されていたとしたら大変嬉しいですね。
当時の時刻表見ていたもの&利用したものですが、浜松は静岡に止まる列車は止まらない、三ノ宮は神戸に止まる列車は止まらない、小倉は門司に止まる列車は止まらない、ぐらいの勢いがありました。現にあさかぜなどは浜松停車の静岡通過でした。
ビーフステーキ定食ですが、現在の価格だと3000円ぐらいです。サラダが付きます。当時は牛肉は高い肉でした。カレーライスが100円なのは、レンジでチンだからです。
門司は機関車交換が必要な客車特急が停車してそれ以外は小倉に停車していた。三ノ宮はさくらのみ停車していた。
名古屋発23時57分発の姫路行きの普通列車あったのですね。
今あったらナゴヤドーム(バンテリンドーム)でのナイターが長引いてもほぼ最後まで観戦できる関西のプロ野球ファンには最適な列車になりますね。当時なら中日球場(ナゴヤ球場)ですね。
この姫路行きの上りがムーンライトながらのご先祖様です。この列車は後に豊橋始発の電車になり、ヨンサントウダイヤ改正で大垣始発に改められています。
懐かしく感じながら拝見しました、ありがとうございます。僕が高校生だった頃に比べて西鹿児島駅到着が遅い事に気づいたのですが、1964年当時は東京駅出発も遅かったのですね。学校からの帰宅時に西鹿児島駅にラストスパートを駆けるはやぶさ号を遭遇した時、運転士が警笛で合図してくれた事を思い出しました。あと、大学生の時、帰省で東京駅のはやぶさ号が出発するホームに着いた時、鹿児島弁が聞こえてきたのも懐かしく思います。今思うと、西鹿児島行のはやぶさが思い存分に汽車旅ができる最後の列車の一つだったと思います。
ご視聴とコメントありがとうございます。
東京駅の出発時間が当時は遅かったようですね。線路容量やその他の事情があったのかもしれません。
不便な面も多かったですが、『汽車旅』ができた良い時代ですね。
いつも、訂正やリクエストに素早いご対応ありがとうございます。自分でも複数の時刻表を所持していますので、実際に開いて確認しています。今後も(時刻表的に)おもしろい内容をお待ちしています。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
確認していただけて大変心強いです。
正確な情報をお届けできるように、作成中のチェックも反復して行っていこうと思います。
お疲れ様です。
東海道新幹線開業は夜行にとっての最初のターニングポイントでした。
東名阪の優等列車はこれを機に特急全廃、急行・準急とも縮小の一途で今となっては高速バスがその代替になっている感があります。
そして振り返ると西鹿児島にはやぶさ以外の特別急行列車もないんですよね
ご視聴とコメントありがとうございます。
1964年9月は、東海道本線や山陽本線にとって、一番盛り上がっていた時期ではないのかなと個人的には感じます。新幹線の開業や、高速バスの進出により、徐々に縮小していきましたね。
しかし当時はこれだけの夜行列車を設定していても、指定席の確保は大変だったのでしょうね。
山陽本線に関しては、輸送需要がより旺盛になったのは1975年3月改正直前ではないかとは思います
国鉄が値上げを毎年繰り返すようになった1976年までは輸送需要は年々伸びていましたから……
「あさかぜ」なんかは東京〜博多ですが、山陽新幹線全通直前は3往復体制になっていたかと。
この時代は寝台車だけでなく座席車もあるって良かったですね。
現代では夜に急な事があっても鉄道移動が出来ないので車に頼るしかないんですよね。
そういう事も含めて当時は選択肢があったのが羨ましいです。
新幹線開業後2等座席車(現普通車)は寝台車へ改造されていきました。最後まで残ったゆうづるもヨンゴウトウダイヤ改正でオール寝台車になった。唯一あさかぜ下り1号の1等車(現グリーン車)のみゴウマルサンダイヤ改正まで残りその後廃車されている。ちなみにヨンサントウダイヤ改正後は前記のゆうづるのみです。
時刻表の旅シリーズを見て行くうちに、昔は未開業の駅が段々と分かってきて、いつ開業したのか調べるようになりました。(三河安城、膳所、瀬田、中野東とかですね)
東京駅の夜行列車連続発車のダイヤから見ても夜行列車は昭和の移動手段の代表であり、自分もそうだが、それを味わうことがもうできないのは旅好きな人にとっては羨ましさと悔しさがあります。
15:34の普通久留米行きが普通種別のままで無停車運転をするという今では滅多に見れない運転をしていたのが驚きです。
当時は未開業の駅もたくさんあったことがわかりますね。
特に愛知、広島、福岡に多いと思います。
別途あげさせていただきましたが、名前が変わった駅もたくさんありますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
未開業であったり、名称が変わったりと、駅もこれだけ変化するのかと私も勉強になりました。
普通久留米行きですが、時刻表上は特に表記はありませんでしたが、調べてみると「快速」として運転していたようですね。
夜行列車が次々と発車していく様子を、実際にホームに立って見てみたかったです。
良質。これに尽きる。
18:21 長州でなく長洲(ながす)です。
ご視聴とコメントありがとうございます。
概要欄に訂正文を掲載させていただきました。
ご指摘ありがとうございました。
浜松や豊橋を通過してまうスパルタンさ、最高にカッコええですわ🥰地元三宮も通過😳カッコええ🥰
静岡と浜松は選択停車で豊橋はさくらのみの停車です。
個人的に幼少期(時代は90年代初め)、福岡に住んでいた所が鹿児島本線沿いで、まだ一部列車は食堂車連結晩年期の頃で時刻表一覧(0:27)にあった九州寝台特急の全てを見れたのはいい経験だったと思う上、ちょっと話が変わるものの、荷物列車が減少・廃止により、ダイヤに余裕が出来た事で普通・快速が増発した事がありましたが、改めて九州寝台特急の発車時刻を見ると帰宅時間帯に被る上、今ではかなり大変な時間に出発していた事と廃止になった分、普通・快速の増発に貢献している事を再認識ましたね…😢。
横浜の次が静岡までノンストップは驚き😮
寝台特急富士も2回すれ違っていましたが、はやぶさも2回すれ違っていたんですね。大発見でした。
そのために寝台特急あさかぜ1号が20系から24系25型に変更になると食堂車の捻出のために付属編成に移っているがこれは基本編成だとは3編成必要が付属編成だと2編成で済むための措置です。24系の食堂車はヨンハチトウダイヤ改正で新製されたのが最後で足らない分は14系オシ14型から改造されて100番台になっています。そのために銀帯の中に食堂車だけは白帯です。
熊本発着の末期と比べて停車駅が驚くほど少ないですね。
こういう時間をかけられる旅が出来なくなって寂しい限りです。
高速道路網もなく飛行機も高嶺の花だった時代長距離移動と言えば鉄道一択だったんでしょうね
僕らの子供の頃と言えば、鉄道、そして特急列車。その中でも、ブルートレインは、際立って見えました。はやぶさは、特に人気も有り、富士と切磋琢磨して、東京〜西鹿児島間を、走って下さいました。お疲れ様でした。もう一度ブルートレインのお姿を拝見したいものですね~!不定期でいいから、お願いします‥
はやぶさという列車名といえば今は新幹線ですが、1964年当時はブルートレインでしたね😊
東京~西鹿児島という長距離区間のためか上り列車と2回もすれ違うのは他の列車ではあり得ないでしょうね😅
1964年当時は様々な夜行列車が存在していましたが、はやぶさのようなブルートレインはその中でも花形と呼べる列車でしょうね😂
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
「はやぶさ」と聞けばブルートレインですが、今でも「はやぶさ」という名称の列車が活躍していることは嬉しいですね。
「はやぶさ」は小さい頃からいつか乗りたいなと思っている内に、乗る機会を逃してしまいました。名前の響きも良いですし、魅力ある列車ですね。
上皇様も皇太子の時、はやぶさに御乗車されました。
それを引いたC61-31はぴかぴか✨に磨かれ国旗掲げての晴れ舞台、誇らしげだったでしょう。
無論乗務員さんたちも、いや緊張の連続か(笑)
寝台特急富士もそうですし、のちの寝台特急トワイライトエクスプレスも毎日運転していたときにはそうです。
あぁ・・・ブルトレ1度も乗らずに終わってしまいました😭
現在ブルトレは1本も無く、寝台特急は「サンライズ出雲・瀬戸」しか無いですからね。
自分が子どもの頃はSLホテルとかがまだあって、廃車になったオロネ10とかに泊まる事ができましたな。(*´・∀・)
当時の20系ブルトレには「座席車」も連結されていたのは、寝台券売り切れ客救済よりも東京〜名古屋・広島から先のヒルネ客を拾っていたから?
そうですね、20系には「ナロ20」(1等座席車)「ナハフ20」(編成最後部の2等座席車)「ナハ20」(中間部の2等座席車)が連結されていますね。
@@原田寛-e3uさま
新幹線のない時代、国鉄は東海道線の線路容量ギリギリまで列車を運行していました。座席でも良いからと早く目的地に行きたいというニーズがあったものと思います。
東海道新幹線の開業直後に座席車は寝台車に改造され、文字どおりの寝台特急になりました。
@@TSUYOS185 さん
後に、「あかつき」の長崎編成に3列独立シートの「レガートカー」が連結されていた事がありますね。
@@原田寛-e3u さま
あかつきやなは号のレガートシートは夜行の高速バスに対抗するためのものでしたね。
その頃には山陽新幹線はもちろんのこと鉄道だ飛行機、カーフェリー、バスという多数の交通機関が出現したことから
@@原田寛-e3u さま
レガートシートは当時夜行のあかつきやなはにありましたね。
その頃になると山陽新幹線だけでなく航空機、カーフェリー、さらには高速バスと言った交通機関が発達したことから、座席車を連結するようにしたものですね。
指定座席で普通車で3列と言うのは魅力でしたが、乗車する機会がなかったのが残念です。
名古屋までの停車駅の少なさと、深夜にも関わらず、関西圏でも律儀に営業停車するのが、今とは違う感覚。
大阪行きの夜行列車がたくさんあったことに驚きです。それ程夜行列車のニーズが強かったのですね。
時折、沿線の名物が紹介されますが、これが旅情を誘います。
庶民に手の届く金額で夜行列車が増えて欲しいです。今のクルーズトレインは敷居が高い!(^^)!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
クルーズトレインには乗車したいですが、敷居が高いですね。ですがいつか乗車してみたいです。
今後はより旅情を誘えるような内容を追加していきたいなと思います。
東京発の夜行特急・急行列車の時刻表を見ると、20時台から22時まで10分に1本の頻度で発車していたことに驚き。そして23時発の準急「東海」大垣行は、後の大垣夜行→ムーンライトながらの原型ですね。この当時の東京発東海道線は横須賀線と線路を共有していました(東京~大船)ので、夜行特急・急行の合間に両線の普通電車運行という過密ぶりじゃないですか。最もこの時代はいわゆる鎌倉・横須賀方面や湘南地区は別荘地帯という認識で今みたいなベッドタウンというわけではなかった(つまり通勤路線という認識がなかった)という時代背景を考えれば、当時の国鉄が夜の時間帯に通勤用普通電車より優等列車の運行を重視していたことが伺えますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
夜行列車の時刻を並べてみると、その多さに驚きました。
仰る通りで、優等列車の合間に普通電車を走らせていました。一日中ひっきりなしに列車が出発していましたから、東海道線のホームは通勤客はもちろん、荷物を抱えて旅に出る人もいて、今以上に活気があったでしょうね。
通勤需要と長距離移動の需要の双方に配慮したダイヤ作成をする必要がありますから、当時の担当者の苦労を考えるとただただ頭が下がります。
違うぞ 大垣夜行の原型は東海の後に走ってた大阪行き普通が大垣止まりに短縮されたやつ
@@マイテ-x8o
そのとおりですね。この4年後に大阪行きの普通列車の電車化で大垣行きに短縮されています。
そして驚くことには東京から関西への普通列車にはもう1本、名古屋から大阪を夜行運転する列車もありました。名古屋駅のところに出てくる143列車です。
ライバルの近鉄ですらなし得ないニッチ市場もあったものと思います。
この欄には電車急行の夜行には不定期列車(現季節列車)が多分に含まれていて、例えば第2いこまとか、はりまなどです。
未だに“はやぶさ”というと、こちらの寝台特急の方を先に思い浮かべるオジサンです。残念ながら乗る機会はなかったのですが、伝統の“さくら”や“富士 ”、運行区間を表す“出雲”“瀬戸”と列車名が並ぶ中で、颯爽としたイメージの“はやぶさ”の列車名には子供心に憧れを抱いていました。
八代ではやぶさのすれ違いが
案内されてました。富士は
深夜立花、甲子園口辺りで
すれ違ってたみたいです🤗
特別急行ですね!停車駅の少なさに改めて感動します。
【はやぶさとは?】
昭和生まれの人のイメージ=ブルートレイン
平成生まれの人のイメージ=東北新幹線
特急「はやぶさ」 東京 → 横浜 → 静岡 → 名古屋 → 京都 → 大阪 → 神戸 → 岡山 → 福山 → 広島 → 岩国 → 小郡(新山口) → 下関 → 門司 → 博多 → 久留米 → 大牟田 → 熊本 → 八代 → 水俣 → 出水 → 川内 → 西鹿児島 😮
深夜~未明の京都駅や大阪駅で客扱いを行っていたところが驚きですね。
これが大きな利点😊
深夜に客扱い停車しなくなったのはヨンナナサンダイヤ改正からで、それまでは停車していました。あけぼので深夜の客扱い停車をせずに運転停車だけにした所とくに問題がなかったので実施された。
食堂車は値段が高くてそんなにうまくなかったけど今となっては最高の思い出。ポット入りのカレーはあれ以来食ってない。
東海道本線、東北本線を走るブルートレインには乗ることができなくて、もっぱら上野~金沢間の「北陸」のユーザーでした。廃止直前にも乗ることができて、上野駅の改札を出るときに駅員さんにこの切符もらって帰っても良いですか?ってお願いしたら、「どうぞ。またのご乗車をお待ちしています、と言えなくて済みません」と沈んだ顔で言われたのを今も覚えています。「はやぶさ」や「さくら」、東海道を走るブルートレイン乗ってみたかったです。
🌃寝台特急「はやぶさ 西鹿児島行」🗼東京 → 横浜 → 🍊静岡 → 🐔名古屋🏯→ 🌲京都 → 🐙大阪 → 神戸🐔 → 🍑岡山🗻→ 🦺福山🗻→ 🦪広島🏝️→ 岩国 → 小郡 → 🐡下関 → 🍑門司 → 博多 → 久留米🍚→ 大牟田 → 🐻熊本 → 八代 → 🩳水俣 → 井水🩳→ 川内 → 🦌西鹿児島 🍀
寝台特急はやぶさ号、私が母親の九州の在所に行く際に使った列車で思い入れがあります。
2000年頃に乗ったことありましたが、そのときは西鹿児島でなく、熊本始発で鳥栖で30分ほど停車しました。長崎からきたさくら号と連結して東京へ行く運転でした。
寝台特急のラストランの当日に名古屋駅に向かい、ゆっくりと走りながら見送ったのは思い出になりました(*^▽^*)。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
夜行列車は帰省で利用する方も多いので、人それぞれ大切な思い出がたくさんつまっているように思います。
東京~西鹿児島を22時間30分で結ぶ人気寝台特急「はやぶさ」
熊本短縮までほぼ変わらなかった
現在は東京~鹿児島中央を約6時間30分と短縮して、鉄道のスピードアップは進化を遂げる
本当にそうですね。昭和50年代の寝台特急はやぶさの東京出発時刻(16:45)に、今東京駅に行って新幹線に乗れば、その日のうちに鹿児島中央駅についてしまうことがわかり、びっくりしてしまいました。
博多駅に5分停車します。後ろ半分程の付属編成を切り離しです。そして当日折り返しに備えます。
西鹿児島行きが強烈な響きと印象が残りますが、利用実態は博多と北九州のお客さんが多数なのを時刻表から察し出来ますね。
あさかぜの時間帯がいかに人気だったかも窺えます。
ゆえにはやぶさは博多車掌区が伝統も頷けますし東京行きの中で唯一九州弁の車掌さん(笑)
今、北海道行きですがNHKの鳥特集を見て室蘭上空を飛ぶはやぶさは精悍な顔でした(笑)
さくら、みずほは女性的な名称だが、はやぶさは男性的で硬派なイメージを誇った
富士は富士山の雄大さを誇り、あさかぜは豪華とスピードを誇った
東京発のブルートレインはこの頃既にスター軍団として特急界を牽引する事になる
20系B寝台は幅が52cmしかなく肥満の自分には狭かったのを覚えています(急行かいもん時代に乗車)24系になって70cmになって広くなった記憶があります
準急ゆのかは急行457系時代によく乗車していました小倉~大分の運行でした
鉄道が全盛期の頃の列車なのでさぞかし乗車率は良かったでしょうね
11:28 421M福山駅発車時間が間違えがありませんか
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
概要欄に訂正文を掲載させていただきました。ご指摘ありがとうございました。
神足駅とは現在の長岡天神駅ですかね?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
細かくて申し訳ありませんが、現在の長岡京駅です。駅名が変わっている事が、この駅以外にも結構多いことにも驚きました。
博多発新山口から山口線経由宇野行、東京発多気で新宮と鳥羽行を分割、広島発芸備線経由姫路行など今ではあり得ない列車ばかりで面白い
極めつけは高山本線と北陸本線と東海道本線経由名古屋環状列車に驚愕
この循環列車は高山本線先回りはしろがねで、北陸本線先回りをこがねと言い、ヨンナナサンダイヤ改正まで運転されたが改正で高山本線はのりくらになり、北陸本線は特急しらさぎに格上げされたが、このしらさぎには寝台電車特急金星の間合い運用で583系が使用されていて耐寒耐雪を強化したグループが使用されていて第2グループと呼ばれ受持区の南福岡電車区ではさぞ大変だったのではないか?
私はもう少し後の時代の生まれですが、それでも夜行特急寝台、急行はまだ沢山走っており当時鉄道雑誌だけではなく、一般の雑誌でも特集が組まれている程でした。
つくづく幸せな時代だったと思います。
ただ、関西⇔九州方面のフェリーはコロナの影響が一時的にあったにはせよ、復権していて売上が伸びているんですよね。
鉄道の場合夜間保線や費用分担及び貨物等の振り分け等色々難しい問題はありますが、もう少し夜行寝台特急及び急行の復活はあるのではないかと思っています。
うちの何もないような田舎の実家の近くまで寝台列車や夜行列車が走ってたと知って驚いた
ちなみに親戚のばあちゃんは幼少期、そんな何もない駅を通過した光景を見て自分が乗ったのが急行だと知って大声で泣いてしまったら、車掌さんも駅員さんもいい人でちゃんと最寄り駅まで戻してくれたらしい
後で母親にこってり叱られたらしいけど
料金とかどうしたまでは聞かなかったけど、こんなのに間違って乗ったらとんでもない事になりそうだな苦笑い
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
どこに連れて行かれるのかと大変な不安だったでしょうね。今とは違い、新幹線並みの停車間隔ですから、本当に大変なことになりそうです。
どこか懐かしく、どこか寂しい気になるね。
今の定期便がサンライズだけだし、噂では車両の老朽化でなくなるとか聞いたことがあります。
ロマンがまた1つ減るとなると、よりこの動画の価値が上がりますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
サンライズも後継車両の話が出ていませんね。そのまま廃止になってしまう噂もよく聞きます。
動画の価値が上がることは嬉しい事ですが、ロマンあふれる列車が減ってしまうのは寂しいですね。
飛行機、新幹線にシフトして衰退した寝台特急列車。
丸一日かけて東京〜西鹿児島を結んでいたが故に上り列車と2回すれ違う。
当時はプラチナチケットだったのであろう。
リクエストなのですが、大阪から西鹿児島を走っていた特急『なは』の昼行(80系DC、485系EC)、夜行(581系、24系25型)、末期(運転区間短縮、あかつき併結)の推移、24系25型、581系、筑豊線経由14系15型使用して乱発していた『明星』お願い致します。
広島で朝食タイム、博多でランチタイム、食堂車の従業員の皆さんは
大変だったでしょうね。どんなシフトだったのでしょうか。気になります。
終着に近くなるとこまめに停車するところは、いかにも寝台列車らしいですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
たしかに従業員の方々の勤務形態が気になりますね。
終点に近づくにつれて徐々に車内は静かになっていったのでしょうね。
はやぶさの食堂車はたしか日食博多営業所だったと思います。さくらが長崎営業所、富士とみずほは門司営業所だったかな?あさかぜは東京営業所だったのでは?
長い旅路ですね、機関車の交換は何度あったのでしょう
山陽路はまだC62かなぁ
20系を引くC62カッコ良かっただろうな。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
この頃は既にEF58が牽引していたかもしれませんね。C62が20系客車を牽引する姿、一度見てみたかったです。
牽引機は広島と下関感はC62型で、この一ヶ月後に山陽本線全線電化が完成します。東京と広島はEF60型500番台です。すでにEF58型は牽引機からは撤退しています。
23:30の各駅停車大阪行きって寝台何ですか。初めて見ました。。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
残念ながら寝台ではありませんでした。ですが電車ではなく、客車での運転でした。今ではありえない列車ですよね。
ムーンライトながらの前身ですよ。普通大阪行が昭和44年10月に短縮されて大垣夜行になりました。
それは上りです。下りは廃止されています。上りは後に豊橋始発の電車になり、ヨンサントウダイヤ改正で大垣まで延長された。
あさかぜ:永久欠番
さくら、はやぶさ、みずほ:新幹線として復活現役
富士:リニアが走る時代まで温存中?
瀬戸、出雲:電車として現役
60pの牽引時代ですね
国鉄時代の特急らしい停車駅設定だなぁ
横浜を出たら熱海も沼津も富士も通過して静岡。浜松も飛ばして名古屋の次は京都...
青い寝台特急はやっぱり鉄道ファンの憧れだという事を再認識させられた
ただ、二度と復活する事は無い。サンライズが引退したら、日本から寝台特急は消える
世界を見渡しても、民営鉄道が夜行列車を動かす例はドイツ(夜行ICE/ユーロナイト)・ベルギー(レギオジェット)・日本(サンライズエクスプレス)だけ。他の国は国営鉄道(子会社含む)もしくは国家が出資する公営企業体
民営鉄道が夜行列車というコストパフォーマンス最悪な列車を動かす事が如何に難しいかは世界が証明している
最後の日には多くの人に見送られた幾多の寝台特急だって、今この時代に復活を願っているのは鉄道ファンだけだろう?一般人は見向きもしない。それが答えだ
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
堂々たる走行ぶりですよね。
仰る通りで、収益が良く、効率も良い列車であるなら、他の交通機関との競争に負けることなく、現在でも残っていてもおかしくないわけですよね。現実を直視すると、鉄道そのものを維持することが難しいかがわかります。
岩国停車徳山通過に驚いた。
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24時間対応するためには、本当に多くの人たちの働きがあったからこそだったのでしょうね。夜行列車が全国的に姿を消していった理由の1つが実感できますね。
素敵な思い出ですね。車窓を楽しみながら食べる夕食や朝食は味も格別だったでしょうね。
22時間半。
今ですと新幹線乗り継いで7時間~7時間半くらいと考えると時間にして3分の1なんですね。
熊本に帰省するとき若い頃は時間かかるな。
それから少しずつ年かさね同じはやぶさでもあれ!もう着いたのか!まだまだ乗っていたいのにと未練がましい心境に変わりました(笑)
東海道新幹線開通前の日本の鉄道は今と全然違いますね。同じ区間でも急行で行くか普通で行くか選択肢があった時代。今の新幹線しか選択肢にない鉄道とどちらが利用者にとってはいいのでしょうかね。
大阪〜は蒸気機関車が牽引したのでしょうか?
この当時は広島と小郡間のみ非電化です。
大阪以西の電化ははやぶさ誕生のときには姫路までで、その後徐々に電化は西進していき最後に残った広島・小郡(現・新山口駅)が新幹線新大阪開業と同時に完成した。ちなみに岡山電化が昭和36年で広島電化が昭和37年で小郡と下関間は昭和36年だったと思います。小郡までは421系交直流電車が九州から乗り入れていました。
この列車には乗ったことがありませんが、何か違和感を感じてしました。
確か、自分が時刻表で知っている寝台特急はやぶさは東京1645発で西鹿児島着が翌日の14時台だったはず。
ただこれは昭和50年代なので、その前に1900発から繰り上げられたのでしょうね。その分、京都大阪の停車時刻が真夜中でなくなり、乗りやすくなったのかもしれませんね。あと、それでも1時間ほど早くなったのは、やはり1964年頃はまだ鹿児島本線が久留米あたりまでしか電化されていなかったからかもしれませんね。
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おそらく昭和49年に東京駅出発が16時45分に繰り上げられたのではないかと思います。時刻表の変遷を見てみてると、徐々にスピードアップしていることがわかりますね。全線電化されたことが大きそうです。
この時代は さくら16:35 みずほ18:20 あさかぜ18:30 はやぶさ19:00 富士19:05の順で出発でした。あさかぜの出発順も後のダイヤ改正に比べると早くなってますね。上り東京着もさくらが一番遅いというイメージがありますが、この当時は富士が最遅。
ヨンナナサンダイヤ改正までは東京18時発が16時45分発になり列車番号も3列車になった。
京都での乗り換えは、奈良線。福山駅5:42 501M 府中行き 府中6:24。門司での乗り換え、南延岡行き521 11:09、急行「べっぷ」別府行き 11:54。熊本 三角線 三角行き14:16 541D、できましたら加筆訂正お願いします。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
動画内での修正ができませんので、概要欄に加筆と訂正内容を掲載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
博多着、今の新幹線のぞみ1号と同じくらいだな。
ほぼ1日かけて運転される当日中の到着は名古屋まで
今なんてこの時間でも鹿児島は当日中に到着
17時半鹿児島は東京からは午前中に出れば余裕。
昼行のこだまもだが県都の駅しか停車しない滋賀が完全スルーで県都以外は福山でやっと停車
九州は昼で鹿児島は夕方同じルートを特急可のなんて深夜は運休せいぜいサンライズぐらいなので
当時の再現は企画列車以外不可でこだまもケースでも東京朝で福岡博多が夜新幹線が偉大なる発明だと思う。
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新幹線のおかげで東京に帰る場合、大阪に21時まで滞在可能になったわけですから、新幹線の偉大さがよくわかりますね。
東京→西鹿児島へ行くには、「はやぶさ」の他に新幹線「ひかり」と「有明」でも行けれるんですよね。
今度は昭和55年のダイヤで東京→西鹿児島で寝台特急「はやぶさ」及び新幹線「ひかり」と特急「有明」をリクエストします。
現在とは名前が異なる駅
岩淵→富士川
神足→長岡京
西ノ宮→西宮
玉島→新倉敷
己斐→西広島
周防富田→新南陽
小郡→新山口
西宇部→宇部
長門一ノ宮→新下関
筑前新宮→福工大前
雑餉隈→南福岡
白木原→大野城
船小屋→筑後船小屋
日奈久→日奈久温泉
西鹿児島→鹿児島中央
西ノ宮の他に「ノ」が消えた駅は東相内、相内がありますね。
151系特急電車と20系特急客車は、昭和30年代の国鉄車両の最高傑作。
1964年10月に東海道新幹線が開業し、新たな時代を迎えたが、国鉄は新幹線工事で蓄えを使い果たし、赤字体質に転じ、多額の累積赤字を抱え、労使関係も悪化。特に「生産性向上運動、所謂、マルセイ運動」で不当労働行為が多発。国鉄幹部が謝罪し、現場の中間管理職層がヤル気を無くし、職場が荒廃…、飲酒乗務とかが状態化しトンデモナイ事態に…とうとう国鉄分割民営化された。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
1964年に赤字に転落してから、そこからの赤字の膨らみ具合は驚くべきものでしたね。鉄道路線、特に地方路線の維持がいかに大変であるかを思い知らされることになりました。
1970年に北九州市で就職して配属先の千葉県に移動するときに門司駅から「はやぶさ」に乗りました🎵
6名での移動でしたが自分はすすんで上段に❗️乗り降りは大変ですが意外と良いところもありました🎵
自分はよく寝台列車に乗ってたので気にしませんでしたが同行者には狭さで不評でしたね❗️
もしかしたら某製鉄会社にお勤めだったんですか?後20系B寝台は、当時3段ベットで幅も狭く不評だったと聞いた事がありますね。
1970年代なら時刻表マニアだった。シュウマイ弁当やすいなww
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時の大卒初任給が約2万円ですから、実際はそこまで安くなかったのかもしれませんね。
ですが今の貨幣価値で考えると大変安く感じますね。
@@tomoyankun 調べたら、今は900円
今で言うと1200-300円くらいなのかな?
所要時間が高速バスはかた号より遅いのってやっぱ今じゃ使いづらいよね
そのために寝台特急博多あさかぜが廃止された事情がありました。最もJRになってからは一部の寝台特急を除いて利用率は芳しくはなかったのです。
14系がみずほに使用されたのはもともた14系がヨンナナサンダイヤ改正から特急に使用されたが製造量数は試作車10両を含めて91両で編成になおすと14両✕6で84両必要になりはやぶさや、富士では基本編成が3編成必要になり、明らかに足らない。そのためにまずはやぶさから14系が除かれていた。それと当時みずほは東京発着の列車では比較的に地味で他の寝台特急に比べて寝台券が取りやすかったので新型といった宣伝の意味もあったのではないか?ちなみに試作車の10両は前年に急行瀬戸2号・1号当時の瀬戸は急行で2往復あり4両ずつ連結されていた。この14系は旧型客車に蒸気暖房を引き通すために機関車からの蒸気が引き通されていたが14系自体は自車からの暖房装置で賄っていた。この装置は後の北海道用の500番台以外ない。
昭和は遠くになりにけり